明らかに運動不足であり、このままではリタイア必至である。
リタイアしたくないのでトレーニングする。
深夜に走る。
途中、中条大橋の歩道を走る。
左側に手摺があるが、手摺はあまり高くない。
下は富士川で、橋から川まで高さが数十メートルある。
暗くてよく見えない。
何かの拍子でバランスを崩して、手摺から落ちたら助からないだろう。
手摺のすぐ横を走るのは怖い。自然に歩道中央に寄ってしまう。
漫画カイジ
カイジらは老いた王たちの見世物のため、地上74mの鉄骨を渡らされる。

老いた王たちは、セーフティーの位置にいる愉悦を感じながら、若者の死を楽しむ。
橋の歩道など、カイジらにくらべれば明らかにセーフティである。
しかし怖かった。現実に感じる死の恐怖は恐ろしい。
しかし、こんなことで怖がるようではだめだ。
とてもカイジには勝てない。
「だめだ、やっぱり俺は凡夫だ。生死を超える事などできていない。」
このまま歩道の真ん中を走って橋を渡り切っても、自己嫌悪に陥るだけである。
意を決して左に寄る。
しかし、怖いからだんだん右に寄ってしまう。
「ランニングしていてすべって落ちて死んだ。」というマヌケな死に方が嫌だったというのもあるだろう。
「このままではだめだ。なんとかしたい。」
理由はともかく、最低でも左側を走った事実を作りたかった。
ふと閃いた。
「右側は手摺なし」と想像することにした。
そうすると右側は大変危険である。
自然に、手摺左側に寄って走ることができた。
左側に対する恐怖はほとんどなくなった。
人間は相対的に安全なほうに逃げ込むのだ。
大きな恐怖によって小さい恐怖を克服する。
これは目指している意識とは違うのだが、とりあえず左側を走り切った事実に満足した。
「想像力は知識よりも大切である」アインシュタイン
あることをやらなければならない時があったとする。
しかし、その勇気がなくて何も行動できなかったとする。
その場合、何もしなければもっと危険な状態になる事を想像してみると、自然に行動できるようになるのではないだろうか。