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どうでもいいブログ-会計研修室の放課後::徳川慶喜

徳川慶喜

徳川慶喜。
表面的には徳川幕府を滅ぼした無能将軍にみえるかもしれません。
しかし、実は明治維新の最大の功労者ではないかと思われます。
徳川慶喜は、後世の歴史家からみてどう判断されるかという基準で行動していたそうです。
欧米列強の植民地支配を回避するためには、古い体制の幕府は滅ぼすべきと考えたのでしょう。

幕府軍は戊辰戦争で、薩摩長州に勝つチャンスはいくらでもありました。
鳥羽・伏見の戦いのはもちろん、江戸侵攻時にも勝機はありました。
江戸侵攻時、小栗忠順は幕府の海軍力を使い、駿河で薩摩長州軍を分断することを画策しましたが、慶喜はそれを避け、みずから敗北への道を選びました。

大村益次郎「あの策を用いられていたら我々は全滅していたに違いない」

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渋沢栄一回顧録

伊藤公(伊藤博文)が慶喜公に対面されたのは、多分私の宅でが最初であつたと際しますが、両公について面白い話があります。

いつ頃の事か一寸失念(ちょっとわすれ)しましたが、私が所用(ようじ)あつて横浜に参らうとすると、汽車中で偶然伊藤公に逢ひました。

する公が、渋沢君、君に是非話さねばならぬことがあると云つて話されたのは斯う云ふ事でした。

実は昨夜有栖川宮殿下が、来朝された西班牙〈スペイン〉皇族を晩餐にお招きになつて、両公が相客として同じく御招待を受けたのであります。

その夜晩餐が済んで、相客の両公が対座された時に、伊藤公が突然慶喜公に向つて、甚だ卒爾(そつじ-無礼)な質問をして失礼であるが、これは拙者が永年の疑問として胸底に残されてゐる事で、いつかお目にかふる機会を得たら、お訊ねしたいと思つて居た。

それは外でもないがあの政権奉還の際、公が一身を投げ出して、朝命に唯これ従ふと云ふ、(天皇の命令に唯従という)恭順の態度に出られたのは、全体どう云ふお考へからなされたのか、人に依つては、卑屈とも、賢明とも、表裏両様の解釈が出来るので、甚だ立入つた事であるが、当時の御心中を伺ひたいと云ひ出した。

すると慶喜公は言下に答へて、それは甚だ改まつた御質問であるが、実は何もお話する程の良い思慮があつてやつたものではありませぬ。

私はあの場合に、予て(かねて)から申含められた親の遺命を思ひ出しました、それで私はその遺命を傍目(わきめ)もふらず奉じた迄の事であります。

と云ふ意外千万(いがいせんばん-いがいな事なはだしい)なお答でした。

それから伊藤公が其の理由をとお尋ねすると、慶喜公は如何にも謙遜な態度で、御尋ねに接して汗顔(がんがん-非常に恥ずかしい)の次第に堪へませぬ、今更らお話する程の事でもありませぬが、私の生家たる水戸家の勤王は遠く義公(徳川光圀)以来の事であります。

父の烈公(徳川斉昭)は殊に勤王の念の深かつた人で、私が一橋家に入つた時など非常に心配して懇々(こんこん)訓諭されました。

私が二十歳に達した時などは、改めて小石川の邸に招かれて、これからの邦家は却々(なかなか)面倒になるが、幼少の折から教へて置いた水戸家の遺訓を忘れてはならぬ、今日は汝(なんじ)が成人の日であるから、特に申付けるとの事でありました。

私は父の此の言葉は深く胆に銘じて、忘れた時はありませぬ、然るに後年四囲の情勢は御承知の如き有様となりましたから、あの場合私としては、此の遺命を奉ずるの外はないと考へたのであります、たゞそれだけの事で、誠に智慧のない遣り方で汗顔の外はありませぬとの返辞でありました。

これを聞いて伊藤公が私に云はれるには、實(じつ)は君から慶喜公の人と為りを屡々聞かされたが、それ程偉い人とは思つて居なかつた。併し(しかし)昨夜の対談で全く感服して了(さと)つた、実に偉い人だ、あれが吾々ならば、自分と云ふものを云ひ立てゝ、後からの理屈を色々つける所だが、慶喜公には微塵もそんな気色なく、如何にも率直に云はれたのには実に敬服した、と云ふ様なお話がありました。

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徳川慶喜は、家臣にはこう語ったそうです。「日本国の為に幕府を葬るの任に当たるべし」

徳川慶喜の真意は完全にはわかりません。伊藤博文は、徳川慶喜の心の中で対等な話相手にすらならなかったのかもしれません。
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